結婚しました

2011/9/25付で籍を入れ、式を挙げた。自分を観察する絶好の機会なので、結婚式前と、結婚式後、それぞれのタイミングで文章を書いてみた。


<以下、結婚前に記述>

一つの大きな人生の節目と言うことで、色々と自分の状態を観察している。

その一環として、少し前にはてな匿名ダイアリーでこんな記事も書いた。
パラダイムシフトの真っ最中だけど今月結婚する

また、この記事は入籍前、結婚式前の当日朝にかいているのだけれど、やはり不安と言えば不安だ。自分の手で選び取ったことであり、また、自分一人でなく自分の大切な人も巻き込む大選択であるからだ。

今までの大きな変化の内、受験や就職は失敗しても自分一人の問題だし、そしてそれらは自分で選び取ったとはいえ「致し方なく」選んだ面がある。生きていくために。しかし結婚は違う。正確に言えば今の時代の結婚は違う。「致し方なく」結婚する必要などない。それでも結婚する。

気持ちは出航前に近い。不安と期待がない交ぜである。結婚式は親戚や友人へのお披露目会なのだと思っていた。しかし今、結婚式が出航前壮行会に思える。「結婚おめでとう」と言われると、「おめでとう」と言われるべきものにこの結婚をしなければいけないのだという責任をひしひしと感じる。

そんな時、以下の記事を読んだ。

去年末に自動車運転免許を取得した頃から漠然と思っていたこととつながるんだけど、つまり結婚て「(将来への(取れない)責任を負うことによって)ひとはオタクを離れヤンキーに近付く」の一例なのだよね。免許を取って、近所の道路を走りながら運転練習をしているとき、ヤンキー的精神・思考・行動様式みたいなものは、「自動車で公道を走る」という行為そのものから帰納的に導き出された境地なのではないかと考えていた。自動車を運転するのは徒歩でほっつき歩くのとはまるで違う。なにが違うか、それは第一に威力だ。自分一人のしでかしのツケが、自分一人の人生で収まらなくなってしまう。ヒヤリハットの不注意で、容易にひとが死んだり障害者になる。自分だけではなく、他人も巻き込みうる。これは恐ろしいことだ。大した努力をしたわけでもないのにいきなり巨大な暴力の中心に立ってしまう、そうしたとき立ち現れてくるのがヤンキー精神なのではないか。 http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20110808#p2

個人的に同感する。ここでいう「ヤンキー精神」とは、おそらく反知性主義のことだ。ある種の蛮行、ある種の勇気を尊ぶ方向性の事だ。「人間の知性で把握できる事などたかがしれている」と覚悟を決めることだ。結婚生活という荒波に漕ぎ出す上で、知性によるリスクの完全な把握をどこかで諦め、漕ぎ出してしまうことだ。

たぶんこれは、今まで何者でもなかった自分が、「夫」という社会的役割を担う事になる上での感覚だ。「家庭」という社会最小単位の装置に自分をはめ込む上で、なにか自分が自分でないものになってしまうような、自分自身が制御できなくなるような感覚を覚える。それは確かに、車という自分より遙かに力をもったものを制御し公道運転に臨む精神状態に似ている。

知人の既婚女性に言っていただいたのが、以下の言葉。

理屈や論理でカタがつく人生なんて、つまんないよね。結婚すると、自分の人生がいい感じに制御不能になるから楽しいよ。

たぶんそういうことなのだろう。ある程度、流れに身を任せる必要はあるだろうし、一方で流されすぎる事に抵抗していかなければ、自分のみならず自分の大切な人まで巻き込んでしまう。

また、今までは自分に何があっても自分が死ぬだけだと、L.A.の深夜地下鉄を利用して黒人に絡まれたり、スラムで襲われかけたり、オーストラリアの危険地区をぶらついたり、タイのゲイストリートを歩き回ったりしたけれど、もうたぶん、そういうことは怖くてできない。今でも昔より様々な事に対する警戒心が上がっている。横断歩道渡るときも、左右や後ろや前からくる車をとても警戒している。昔は携帯いじりながら渡っていたのに。

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正直な事を言えば、僕は婚約者と一緒に死ぬまで暮らしていきたかっただけで、別に結婚をしたかったわけではないのだろうと思う。「結婚おめでとう」という言葉には、社会として世代交代の重大な節目の成功を祝うという側面がある。社会から「ちゃんとした大人」として認められるという事でもあり、それに対する「おめでとう」でもある。

しかし今やそういった概念は希薄だろう。そして僕も別に社会の世代交代を担うという責任感もなければ、社会から「ちゃんとした大人」として認められる気もない。ただ婚約者を安心させたかっただけだ。僕はあなたのそばから離れないよという約束を公然とすることで、安心させたかった。だから「結婚」という公然の約束を利用したのだった。

30-34歳男性の未婚率は2010時点で46.8%だ。このままいけば、結婚している人間が少数派になると僕は考えている。そうすると結婚していることが「ちゃんとした大人の証明」とは特にならなくなるだろう。こういう価値観は、結局多数決で決まるからだ。人間は長期的には自己肯定から逃げられないし、すると結婚しない人々が多数になった結果として結婚しない事が社会的文化的に肯定されていくのは目に見えている。結婚していることで経済的文化的に追い詰められるケースすらあり得る。たとえば税制とか。例えばメディアで「結婚は前時代的でださい」と言われてしまったりとか。

とかつらつら書き重ねている内に、時間が来てしまった。続きは式の後で。


<以下、結婚後に記述>

無事、つつがなく挙式と披露宴を終えることができた。ホテルに一泊して、自宅に戻ってこの文章を書いている。

終わってみれば、皆も言うことだけれど「やってよかった」と思うばかりで、感慨無量。そしてありきたりの言葉ばかりだけど、式に来てくれた人々や、電報をくれた人々、ホテルのスタッフさん達、すばらしい余興を披露してくれた人々、会場を盛り上げてくれた人々、披露宴中楽しく話してくれた人々に、心の底から感謝したい。本当に僕ら二人では何もできなくて、だから本当にすばらしい式になった。なんかビデオとか取っておきたかったけど、敢えて思い出の中に眠らせておくのも、それはそれで感慨深い。どうせ写真ですら将来見る度に恥ずかしくて転げ回るハメになりそうだし、ビデオなんて言わずもがなである。

昔子どもだった頃は、結婚式の色々形式ばった物事を、鼻つまみで見ていた。でも大人になって、皆が分かるテンプレートにそれぞれがしっかりと思いを乗せて気持ちを伝え合う事ができるものなのだなと、改めて思った。ただの「おめでとう」という言葉にも、今までのお互いの付き合いの歴史が乗って、ひとつひとつの言葉でなんか泣きそうになる。子どもの頃は、形式に内面の重み、歴史を乗せることができなかったから、理解できず「退屈だなー」とか思ってしまったりした。そういう意味で、やはり結婚式は大人のための式なのだろうと思う。

僕はこれで「所帯持ち」になった。戸籍が新たに作られた。今まで恋人だった人と「家族」になった。まだそういった言葉ひとつひとつに括弧付けをしてしまうような状態だけれど、時間をかけて馴染ませていきたい。

さて、そろそろ新婚旅行に行かなければならないので、ここらへんで切り上げる。読んでくれた方、ありがとうございました。